読み:しかいけいてい
意味:世界中の人々はみな兄弟のように仲良くすべきだということ。また、礼儀とまごころをもって人に接すれば世の人々は兄弟のように親しくなれるということ。
出典:『論語』<顔淵>
解説①:
この四字熟語は次のような文からできています。
”司馬牛 憂えて曰く、人皆兄弟有り。我独り亡(な)し、と。子夏曰く、商 之を聞けり。死生(しせい)は命有り、富貴(ふうき)は天に在り、と。君子敬(けい)して失うこと無く、人と恭(うやうや)しくして礼有らば、四海の内、皆兄弟為(た)り。君子何(なん)ぞ兄弟無きを患(うれ)えん、と。”
現代語訳:
司馬牛が落ちこんで言った。「世の中の人には、みな兄弟がいるのに、私にはいない」と。子夏がこう慰めた。「私はこう学んだ。死ぬも生きるも、[すべて]運命があり、[同じく]財産も地位も天命のままだ、と。教養人たる者、自重(じちょう)して失礼がなく、他者に対しては謙遜して礼儀を重んじているならば、世の中の人々がみな自分の兄弟のようなものになる。実の兄弟がないからといって、どうして落ちこむのだ」と。
*『論語』加地伸行、講談社学術文庫より。
司馬牛(しばぎゅう)は孔子の弟子の一人です。兄弟はいないと言っていますが、兄がいたそうです。その兄の一人が主君を殺そうと計画したため、主君の命令により、もう一人の一番上の兄と共にその兄を攻めたそうです。しかし、司馬牛はその戦いに敗れて他国に逃げたそうです。そのような事情から「兄はいない」と言っているとの解説がありました。
また、その兄は孔子を殺そうとした人という解説書もあり、もしそれが事実であるとすると、孔子は自分を殺そうとした人物の弟を弟子にしたということになります。
司馬牛の姓は司馬、名は耕(こう)または犁(り)、字(あざな)は子牛(しぎゅう)でした。古代中国では相手を”名”で呼ぶことは失礼だったため、別名(通称)の字(あざな)で呼ぶことが一般的だったそうです。
子夏(しか)も孔子の弟子の一人です。姓は卜(ぼく)、名は商(しょう)で、子夏は字(あざな)です。原文に「子夏曰く、商 之を聞けり」とありますが、これは子夏が自分のことを指して言っているので、”商”となっています。
「四海」については、コトバンクに次のような解説がありました。
「天下の意。古代の中国人は中国の四方を海がとりまいていると考えた。《爾雅(じが)》が中国の九州(中国全土を九つの地域に分けたもの)の外に四極(天を支える四本の柱)、その外に四荒(世界の果て、未開の地)、さらにその外に四海がひろがり、四海は九夷、八狄、七戎、六蛮など野蛮人の住地であるというのは,海hǎiと晦 huìの音声の類似から,海が文明の光のとどかぬ”晦(くら)い”ところと意識されたからである。」
執筆者:吉川 忠夫
出典:株式会社平凡社『改訂新版 世界大百科事典』
この解説から、四海はいわゆる「海(うみ)」のことではなく、中国を中心に、文明の光が届かないぐらいの広い範囲のところのことで、天下、世界中のことを指しているようです。
野蛮(やばん)な民族の住むところとされているようですが、民族の壁を越えて、どんな人たちとも仲良くするべきであるし、礼儀とまごころをもって接すれば兄弟のように親しくなれるということを言いたかったために、あえて「四海」という表現を使ったのかもしれません。
解説②:
この四字熟語の意味は、
①世界中の人々はみな兄弟のように仲良くすべきだということ。
②礼儀とまごころをもって人に接すれば世の人々は兄弟のように親しくなれるということ。
と理解されています。
どちらの意味も大切なことですが、仲良くするためには、”礼儀とまごころをもって人に接すること”が一番大切なように思います。
また、司馬牛が「私には兄弟がいない」と言った背景を知ると、司馬牛の心中は察してあまりあるものがあります。子夏が慰めようとした気持ちもわかるような気がします。
司馬牛が「世の中の人には、みな兄弟がいる・・・」と言っていますが、兄弟がいない人たちの他、いろんな事情で親兄弟や親族を亡くしている人たち、子どもや孫たちを早くに亡くしてしまった人たちもいます。また、寂しい思いをしている人や孤独であると感じている人もいると思います。そんな人たちにとって、この「四海兄弟」という四字熟語は心の支えになってくれるんじゃないかなと思います。
*参考資料
『論語』加地伸行、講談社学術文庫
『論語集注』土田健次郎 訳注、平凡社
『四海』コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E6%B5%B7-517099
『字』コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%AD%97-24958

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