四書五経の四書について

 四書五経というのは、
『大学』『中庸』(ちゅうよう)『論語』『孟子』(もうし)
の四書と、
『詩経』『書経』『易経』(えききょう)『春秋』『礼記』(らいき)
の五経のことを言います。
 この四書五経は、孔子(紀元前552/551年~紀元前479年)という中国の学者・思想家の教えを元とする儒教の経典として尊重されています。

 今回は、四書五経のうちの”四書”というのはいったいどんな書物なのかについて、その概略を紹介します。
 なお、『論語』と『孟子』については、それぞれ『改訂新版 世界大百科事典』『百科事典マイペディア』にわかりやすい解説がありましたので、それをそのまま紹介します。

『大学』:
 儒教は一般に「修己治人(しゅうこちじん)の教えだと言われ、「己(おの)れ自身を修める」道徳説と「人を治める」民衆統治の政治説とを兼ねた教説とされています。
 その儒教を学ぶ上での概要を、明確に、そして組織的にまとめてある書物が『大学』とされています。
 この書物では大学教育の理想的なあり方はどうあるべきか、という問題が提起され、その目標として三つが挙げられています。
1)修己(しゅうこ):わが身の修養努力によって道徳の発揚を目ざすこと。
2)治人(ちじん):万民の親和をはかって世界の平和を実現すること。
3)至善(しぜん)に止まる:①②を果たすため、絶えず最高善の境地にふみとどまること。
 さらにこの三つを八つに分け、
①天下を平らかにする
②国を治める
③家を斉󠄀(ととの)える
④身を修める
⑤心を正す
⑥意を誠(まこと)にする
⑦知を致す
⑧物に格(いた)る、物を格(ただ)す
として、④から⑧までが1の「修己」で、①から③までが2の「治人」に当たるとされています。

 この『大学」は、もと『礼記』四十九篇のなかの第四十二篇としてありました。そしてその内容に注目した人たちが現れるのですが、その中で朱子学の大成者である朱子(朱熹[しゅき])という人が『大学』のために『章句』を著(あらわ)し、『大学』を儒学の重要な経典として、「四書」の一冊としました。

『中庸(ちゅうよう)』:
 「中庸」ということばは、わたしたちが社会の中で生きていく上で、何事においても極端にならず、ほどよく中くらいほどをとっていくことを意味していますが、その中庸の徳について解説されているのが『中庸』という書物です。
 第一章に、中庸についての説明がありますので、一部を引用します。
「喜・怒・哀・楽などの感情が動き出す前の平成な状態、それを中(ちゅう)という。[それは偏(かたよ)りも過・不及(か・ふきゅう)もなく中正だからである。]感情は動き出したが、それらがみな然(しか)るべき節度にぴたりとかなっている状態、それを和という。[感情の乱れがなく、正常な調和を得ているからである。]こうした中(ちゅう)こそは世界じゅうの[万事万物の]偉大な根本であり、こうした和こそは世界じゅういつでもどこでも通用する道である。中と和とを実行しておしきわめれば、[人間世界だけでなく、]天地宇宙のあり方も正しい状態に落ちつき、あらゆるものが健全な生育をとげることになるのだ。」

 そして、「中庸の徳」と共に重要なのが、「誠(まこと)」であるとされています。『中庸』第十一章一節に、「誠(まこと)とは天の働きとしての窮極の道である。その誠を地上に実現しようとつとめるのが、人としてなすべき道である。」とありますが、いわゆる誠とは、「嘘偽りのない心」のことだと思いますが、それは相手に対してだけではなく、自分にも嘘をつかない心であり態度であると言えます。この誠にもとづいてこそ、中庸の徳が完成されるのだとされています。
 『中庸』も、もと『礼記』四十九篇のなかの第三十一篇としてありました。そして『大学』と同様に朱子(朱熹[しゅき])という人が『中庸章句』を著(あらわ)し、『中庸』を儒学の重要な経典として、「四書」の一冊としました。

『論語』:
 中国の古典。儒教の代表的な経典、四書の第一。孔子の言論を主として、門人その他の人々との問答などを集めた語録で、20編。儒教の開祖孔子(前551-前479)の思想をみる第一の資料で、また儒教思想の真髄を伝えるものとして後世に大きな影響を与えてきた。内容は、社会的人間としての個人のあり方と国家の政治にかかわる道徳思想を主としているが、中心の主張は忠(まごころ)にもとづく人間愛としての仁の強調であって、親への孝行、年長者への悌順などとともに、利欲を離れて自己を完成させる学の喜びなども述べられている。総じて楽天的な明るさに満ち、断片的な言葉の集積を通して調和を得た孔子の人格や孔子学団のようすがよくうかがえる。(執筆者:金谷 治氏)
出典:平凡社『改訂新版 世界大百科事典』より引用。

『孟子』:
 中国、戦国時代の思想家。魯国の鄒(すう)の人。名は軻(か)、字は子輿(しよ)、子車。孔子の仁の徳に基づく徳治主義を継いで諸国を遊説したが用いられず、退居して教授と著述に専念。その弟子たちとの言行が《孟子》7編に記録されている。彼は礼を父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の五倫とし、人間の本性を性善説で把握、覇道を排して王道による天下統一を説いた。つまり、天意は仁心に基づいた民生安定にあるので、天子はこの民本主義の仁政を行う責任を負っていて、その成否によって生じる天下民心の向背に基づいて天から任免されるとした。その思想は宋代の朱子学によって高い評価を受け、《孟子》は《論語》と並称され、〈孔孟の道〉は儒教の代名詞となった。また孟子の母が教育環境を配慮して三度転居したという伝説、〈孟母三遷〉は有名。
出典:平凡社『百科事典マイペディア』より引用。 

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