四書五経の五経について

四書五経というのは、
『大学』『中庸(ちゅうよう)』『論語』『孟子(もうし)』
の四書と、
『詩経』『書経』『易経(えききょう)』『春秋(しゅんじゅう』『礼記(らいき)』
の五経のことを言います。
 この四書五経は、中国古代の思想家で儒教の祖である孔子(紀元前552/551年~紀元前479年)の教えのもととなる儒教の経典として尊重されています。

 今回は、四書五経のうちの”五経”というのはいったいどんな書物なのかについて、その概略をまとめてみました。

『詩経』:
 中国文学史上、最も古い詩集で、305篇の詩歌を保存。紀元前1050年頃に始まった”周”という王朝時代に歌われたものとされています。
 その詩歌のほとんどは「飢えてはその食を歌い、労してはその事を歌う」働く人々の口頭の文学創作で、これらは、真実を、具体的に、深刻に、当時の社会の歴史や様子を映し出していました。
 当時、こういった詩歌を専門に集める役人がいて、為政者たちに詩を献上し、遠回しに諫め、功をたたえ、徳をたたえ、礼楽をつかさどっていたそうです。
 諸国の民謡を集めた「風」、宮廷の音楽「雅(大・小)」、宗廟の祭祀の楽歌「頌(しょう)」の三つに分類され、「風」は、結婚、恋愛、狩猟、建築、労働、出征、農事など当時の人民の生活の各方面を題材に、愛の喜び、死者への哀悼、肉親への思い、搾取者への憎悪、時間の推移への恐れ、時代の悪さへの悲嘆など、さまざまな感情が率直に歌われています。「小雅」は、祝宴や政治批判の歌が多く、「大雅」では、周王朝建国の伝説を叙事詩風に歌ったものや個人の名を出して歌うことがあるのが注目されます。「頌」には、魯や商の建国の神話を歌ったものも含まれているそうです。
 孔子は弟子たちに向かい、常々、「何ぞ詩を学ばざる」と語りかけていたそうです。

『書経』:
 『書経』は、『書』『尚書(しょうしょ)』とも言います。「尚」には「久しい」という意味があり、「尚書」とは「大昔(おおむかし)の書物」という意味になり、中には王の誓いや戒めなどの”言葉”が書き記されています。
 では、どのぐらい古い時代のことが書かれてあるのかというと、
・?(          紀元前2000年頃):堯・舜
・夏(紀元前2000年頃~紀元前1600年頃):禹(夏王朝の始祖)
・殷(紀元前1600年頃~紀元前1050年頃):
・周(紀元前1050年頃~紀元前 221年頃):
という時代です。
 こういった時代の王の善政や徳が儒教において理想的であるとされ、五経のひとつになったとのことです。
 ちなみに、日本の「昭和」という元号は『尚書』の、次のような箇所がもととなっています。

「克(よ)く俊徳(しゅんとく)を明(つと)め、以(もっ)て九族(きゅうぞく)を親しむ。九族既に睦(むつ)みて、百姓(ひゃくせい)を平章(べんしょう)す。百姓昭明にして、万邦(ばんぽう)を協和す。黎民(れいみん)於(ここにおい)て変り時(こ)れ雍(やわら)ぐ。」

「[帝堯は]よく大いなる徳を勉め行って、それによって親族たちを親しませた。親族たちが愛し睦みあって、[その後]百姓[の職分]を分かち明らかにした。百姓[の職分]が明らかになって、[その後]よろずの邦々を協調和合させた。そこで人民は感化され、こうして和らいだのである。」
                                   (『尚書』暁典篇より)

『易経』:
 易(えき)とは、古代中国におこった占いの方法です。国家の大事を決するとき、殷(いん)(紀元前1600年頃~紀元前1050年頃)では、亀甲(きっこう)、獣骨を焼いてできたひび割れの形によって、その吉凶を決する「卜占(ぼくせん)」が行われていました。
 周代(紀元前1050年頃~紀元前 250年頃)になると亀甲獣骨を使った卜占より、竹などでできた細長い棒を使った占筮(せんぜい)のほうが多く行われるようになりました。
 その占筮の基となるのが、二種類の棒(線?)のようなものです。

 太極とは、中国古代の思想で、宇宙を構成する根本の気。ここから陰陽が生じ、八卦という組み合わせが生じるとされました。更に、この八卦を二つ組み合わせて(8×8)64通りとなり、64通りある卦にはそれぞれ6本ありますから、合計で384通りの占いの結果が生じることになります。
 「易」は、いわゆる「占い」でもありますが、それぞれの結果には思想的哲学的な意味づけがされていて、そのため、易経は儒教の重要な経典のひとつとされています。

『春秋』:
 まず、この書物が作られた時代背景をみてみます。
*注:年の始めと終わりは諸説あって不明な点も多く、時代の流れをつかむための目安です。
 周(紀元前1050年頃~紀元前 250年頃)という王朝時代がありました。その周の時代は
西周(紀元前1050年頃~紀元前770年頃)と
東周(紀元前 770年頃~紀元前221年頃)
の二つに分けられ、更に東周は、
春秋時代(紀元前770年頃~紀元前450年頃)と
戦国時代(紀元前450年頃~紀元前221年頃)に分けて考えられるようになりました。
 『春秋』は、この時代の流れの中の、春秋時代の歴史書です。
 春秋時代は周王朝の時代ではありましたが、たくさんの国がありました。その数は140とも200以上とも言われています。
 『春秋』の内容は、「魯」という国での出来事を中心としており、王や諸侯の死亡記事、戦争などの外交記事、日食・地震・洪水といった災害記事が主たる内容で、その体裁は、年月日ごとに淡々と書かれた年表のようになっています。
 「魯」という国は孔子の出生地でもあり、孔子は紀元前552年か551年に生まれ、紀元前479年に亡くなったとされていますので、ちょうどこの「春秋時代」に生きた人物です。
 このような背景から、『春秋』という書物は年表のような書物ではありましたが、それに孔子の手が加わったものとされ、儒教の経典として尊重されるようになったようです。

『礼記』:
 「礼」とは、天地の神々や祖先の霊を敬(うやま)い感謝の気持ちを表すときの動作や言行、服装といった作法のことであり、宗教儀礼が基とされています。それが、家族をはじめとする人間社会の秩序へと慣習的に形成されていき、それを整備して理論化したのが孔子を祖とする儒家でした。
 孔子が生きた春秋時代は多くの国が乱立していたこともあってか、内乱や領土の奪い合いなどによって社会の秩序が乱れ、周という王朝時代の「礼」が崩壊しつつある時代でした。それを憂いた孔子は、「礼」を回復して社会に文化的・道徳的な秩序を取り戻すことが自身に課せられた使命であるとしていました。
『礼記』という書名は「礼」あるいは「礼経」に関係する論議・注釈を意味しています。現代に伝わる『礼記』は、周から漢にかけての儒学者がまとめた礼に関する記述を前漢の戴聖(たいせい)が編纂したものとされ、その内容は、政治・学術・習俗・倫理などあらゆる分野に及ぶ雑然とした記録を集めたものです。
 その具体的な内容ですが、礼服や喪服といった服装に関する規定、先王の政治制度、年中行事と天文や暦、祭祀の根本や意義、音楽理論について論じた「楽記(がくき)」、孔子と哀公、孔子と弟子たちの礼に関する問答、冠婚(成人式や結婚式)、諸侯間の訪問・見舞い、宴会・親睦会、などといったことが49篇に分かれて記されています。

*参考資料
『教養としての中国古典』湯浅邦弘[編著]、ミネルヴァ書房、2018年
『詩経入門』趙 浩如[著]増田英次[訳]、日中出版、1988年
『詩経』ー歌の原始、*書物誕生あたらしい古典入門、小南一郎[著]、岩波書店、2012年
『易の話』金谷治[著]、講談社現代新書、昭和47年、昭和60年
『古代中国の伝説の王たち 神話から歴史へ』
 早稲田大学エクステンションセンター中野校 講師 加藤徹、2024年
 https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/waseda20241112.html
『「周易」の儒教経典化研究-出土資料『周易』を中心に-』(元 勇準)
 東京大学大学院人文社会系研究科・文学部
 https://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2008/584.html

コメント

タイトルとURLをコピーしました